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女が”開く” 分水嶺付記4

もし私がNさんによるYの所有を受け入れていたら…。

具体的に言うなら、あの時相互オナニーで満足していたら…。

自分で決断を下さず、逃げることを選んでいたなら…。


Nさんは(Yは)私という人間を見限っていたでしょう。

NさんがYを所有することを認める。それはすなわち私がYに対する権利

-夫という立場を放棄するという意味。

YとNさん私、3者で真摯に向き合うことから逃げる

ということを意味しているのですから。

そうなればNさんは容赦なく私を切り捨て、Yを奪っていたはずです。


そしてあの朝、Yの意識は”M(私の名字)Y(名前)”ではなく、

宿泊名簿に書いたとおり、”N(Nさんの名字)Y(名前)”に書き換わって

いたでしょう。

私のことは書類上の夫。同居人に過ぎぬ存在とみなしていたに違いありません。


その後の生活はどうなったか…。

擬似結婚式の後もしばらくは共に暮らしたと思います。

それは夫婦が愛情ではなく”情”で繋がっている状態です。

しかしいずれYは私の元から去り、(それは同時にNさんとの

関係を絶対に認めないであろう家族との縁を切ることも意味しています)

Nさんの元へ赴いたに違いないと感じています。


世慣れた女性の多く-不倫や男性関係をうまく立ち回っている女性は

”精神”と”肉”を上手に切り分けて生きています。

良くも悪くもその場の関係はその場だけのモノと割り切って

上手に楽しむことが出来ます。

しかしYはそれほど器用に生きられる女性ではありません。

何らかの欺瞞で一時的に自分を誤魔化したとしても、

欺瞞に苦しみ、いずれは破綻するに違いないのです。


真摯に対してくれるNさんに対して、

感謝とともに申し訳ない気持ちもあります。


先にも述べたように”共有妻”は刹那の関係です。

いずれは関係を解消してYは家庭へと戻っていきます。

Nさんは限られた時間の中で私達夫婦、そして私、Yという個。

それぞれとの関係性を慈しみ、楽しんでおられます。


それはすなわち、”調教師”としては大きな制限がかかった

関係であるとも言い換えられます。刹那の関係=家庭へと戻る

ことが前提の制限された調教しか出来ない、ということなのですから。


故に私達との関係においてNさんは、

性を通じて私達夫婦との関係性そのものを楽しんでいる状況

-人間性の未熟な私達を導くことを楽しみの主体と捉えている、

教育者としての面が主体となった”仏”のNさんと言えるのです。

(これが解るのは今だからこそです)

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