そこで一旦動画が止められました。
Nさんは、「覚悟は出来ていますか?」と静かに尋ねました。
その問いは、私の”姿勢”に対して投げかけられたものでした。
Yは、私の意思を受け入れ、Nさんと情交することで過去に囚われた
臆病な自分を打破し、枷を破ることを選んでくれました。
彼女の気持ちを受け止め、これから見せられるであろう
淫らな姿を受け止める覚悟はあるのか?
”枷から解き放たれたY”を受け止める覚悟はあるのか?
という問いだったのです。
Yに目を向けると、彼女は恥ずかしさから頬を染め、唇を噛みながら
所在なげに俯いていました。彼女の胸中は図り知れません。しかし、
祈るような気持ちで私の返答を待っていることは伝わって来ました。
正直に告白すると、Yの姿が、Nさんと情交する愛おしい女の淫らな姿が
見たくてたまりませんでした。それは幾度も妄想し、自慰を繰り返した場面でも
ありました。しかし、見たいという気持ちと同じくらい、見ずに済ませたいという
相反する気持ちがあったのも事実です。
Yが他人と情交するという、身を切るような痛みと対面せず、
”枷から解き放たれたY”という結果だけを受け入れたいという後ろ向きな
気持ちが。後ろ向きな選択をした時点で、私はYを失うことは解っていました。
それでも、怖かったのです。真実の”Y”を見ることが。
怖かったのです。一夜にしてYを女に変えた”情交”を見ることが。
しかし、Yを見ている内に、私の中に湧き上がってくる気持ちがありました。
それは、ここまでしてくれたYに対する感謝と、愛おしさでした。
私は自分を奮い立たせました。そして、ゆっくりと頷きました。
これは私達夫婦で選んだ道でした。その過程を受け止めることは、言い換えれば
真実の”Y”を受け止めることを意味しています。その姿がどれほど淫らで、心を苛む
ものであっても、私が受け止めるべきもの、いえ、受け止めたいものでした。
私が頷いたのを見て、Yが小さく息を吐きました。
うっすらと笑みが浮かんだように見えました。これで良かったのか? と、不安で仕方な
かったのでしょう。その時、Yがようやく安堵したように感じられました。